東日本大震災から1年以上が過ぎ、被災各地で復興が進む一方で、少しずつではありますが、風化の兆しを感じずにはいられません。そのなかで今なお様々な問題をかかえている福島。私達ができることは、しっかりと自分達の目で被災地を知り、被災した動物がどのような毎日を過ごしているかを、ペピイをご覧のみなさまにお伝えする事だと思いました。そこで今回は、福島の三春町にある被災動物保護シェルターの管理獣医師として、毎日犬や猫と向き合っている渡邉先生にお話をお聞きしてきました。
(2012年6月18日 三春シェルターにて)
(左)三春シェルター管理獣医師 渡邉正道先生:富岡町で20年以上動物病院を経営。被災後の現在は、獣医師でもある奥様の美智子さんと郡山で病院を再開、二足のわらじで三春シェルター管理獣医師としても活躍している。
(右)ペピイ事業部 事業部長 平尾 泰久
「なんだこの揺れは、これはまずいぞ」
2011年3月11日、診療中に起こった大きな揺れは多くの災いをもたらしました。
渡邉「皆が悲鳴をあげながら避難するのを横目に必死で棚を抑えていましたが、立っていられなくなって外へ避難しました。空は真っ暗、みぞれが降りだし、雷が鳴り、この世の終わりかと思う程でした。」
その後先生は、入院中の動物達が心配で、ひとまず病院へ戻りました。
渡邉「道中津波で打ち上げられた、たくさんの民家の車を目にしました。なんとか病院に着き入院中の子の無事を確認し、食事だけを与え、すぐに戻れると言う思いで動物達を残し、指示されるがまま避難しました。」
その後原発の水素爆発があり、避難先を何度も変え、三春へ避難してきたそうです。
平尾「地震のすさまじさを改めて思い知らされます。病院に残した子たちのことが心配でならなかったのではないですか?」
渡邉「避難先を転々としていた時は、正直動物達の事を想う余裕はありませんでした。避難の直前、娘からは、わが家で飼っていた妊娠中の犬だけでもどうしても連れて行きたいと強く頼まれましたが、入院中の他の動物を差し置く事は、獣医師としてできませんでした。」
平尾「とても複雑な思いでね。」
渡邉「日時が経過するうちに残してきた動物達の事が頭から離れず、救助を決断しました。近隣の先生から借りたわずかなケージ、数本のペットボトルの水を車に積み、区域内の状況もまったく不明な中、辞世の句を詠み、決死の覚悟で病院に戻りました。」
渡邉「入院中の犬のうち、残念ながら5頭が亡くなっていました。飼い主さんと亡くなった犬達に対し、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。しかし、帝王切開予定のお腹の中にいたフレンチブルの仔が奇跡的に生まれていたんです。思わず涙があふれてしまいました。」
やるせない気持ちと、安堵の気持ちが入りまじった、なんとも言いがたい感情だったそうです。その後、先生は病院と避難先を何度も往復し、なんとか動物達を運び出しました。
(1)避難時の国道288号。地面は割れ、陸橋が倒壊。(2)震災直後、病院内の犬舎。(3)震災直後の院内処理室。(4)渡邉先生の飼い犬である母犬と、奇跡的に産まれた仔犬。
平尾「無事救出できた子達と共に、避難生活を続けていたんですね。他にも先生と同じように、同行避難された方々はいらっしゃったのでしょうか。」
渡邉「同行避難した方はほんの一部でしたが、小学校や公民館などの避難所に訪れた時に、「先生、避難所に犬を連れて住めないんです。他の人の迷惑になりそうで・・・。」という悩みをたくさん聞きました。中には車の中にペットシーツを敷いて飼っている方もいらっしゃいました。飼い主さんはもちろん、犬や猫もつらい思いをしているのだろうと、そういう悩みをかかえている方のペットを預かるようになりました。」
平尾「そのことが私設シェルターの始まりになったんですね。」
渡邉「私設シェルターを始めて物資が何も無かった時、2千人以上の避難所となっていたビッグパレットという施設に、軽トラック一台分ぐらいの荷物が届いたんです。私の願いを聞きつけて、群馬県獣医師会の先生方始め、他県の有志が持ってきてくれたケージとフードでした。いやー、人と人、人と犬との絆をその時ほど感じたことは無く、今でもそれらのケージを見るとその時の感動・感謝の気持ちが甦ります。」
一時的な避難所だった、私設シェルター。
震災前:約10,000頭の犬・猫が生活していたと見られる。